いま、なぜここで書くのか

ランプの灯りの下、開いたノートのそばで寝転ぶレインボー色の猫のイラスト 発信

このブログの最初の記事は、「なぜここで書くのか」だった。

あれから、十本近くの記事を書いた。ふと思い立って、最初の記事を読み返してみたら、こんな一文があった。

「書いたものは、後で読み返した時に対話の相手になる」

なら、対話してみようと思う。これは、最初の記事への返信だ。

あの時の答えは、変わっていない

あの記事の核は、「自分のために書く」だった。

自分のことを正しく知り、忘れないようにし、見返せる形で残す。読まれなくても、自分の整理ができた時点で目的は達成されている——そう書いた。

ここまで書いてきて、これは確信に変わった。書くたびに、自分の輪郭が少しずつはっきりしていく。書く前には分かっていなかったことが、書き終わると分かっている。あの時の答えは、いまも正しい。

ただ、「自分のために」の中身の解像度が、当時とはずいぶん違う。

書くことは、名前を作る作業だった

当時の私は、「記録のために書く」と思っていた。気づきを忘れないように、留めておくために。

いまは、もう少し手前のことが見えている。

書くことは、記録する作業である前に、名前を作る作業だ。

頭の中にあるあいだ、考えや気持ちは輪郭を持っていない。もやもやとした手応えだけがある。書こうとすると、そのもやもやに言葉を当てなければならなくなる。当てては外し、当てては外し——しっくりくる言葉が見つかった瞬間、それは初めて、つかめるものになる。

これまでの記事は、ぜんぶそうやって書かれた。「見えない仕事」も、「名前のない気持ち」も、書く前の私はまだ、それらをちゃんとつかめていなかった。記事になったものは、私が私に渡した名前だ。

「読者は二次的」は、半分だけ正しかった

あの記事で、私は「読者の存在は二次的だ」と書いた。

嘘ではなかった。でも、いまならもう少し正確に言える。

私が書いているのは、過去の私と同じ場所にいる誰かへの手紙だ。

自分のために誠実に書くと、それが誰かに届くことがある——当時はそれを「逆説的な構造」として理解していた。いまは、逆説でも偶然でもないと分かっている。過去の私が欲しかった言葉を、いまの私が書いているのだから、同じ場所にいる人に届くのは、むしろ自然なことだった。

そして、書く理由のいちばん深いところには、たぶん、こういう対称がある。

自分が誰かから一番もらいたかったものを、渡せる形にして、差し出している。

私がもらいたかったのは、自分の内側を分かってもらえることだった。私が記事で渡しているのは、読者が自分の内側を自分で分かるための、小さな道具だ。形は違うけれど、中身は同じものだと思っている。

燃料が、見えた

あの記事は「焦らない。続ける」と結ばれていた。ただ、何を燃料にして続けるのかまでは、書いていなかった。当時は、私にも見えていなかったのだと思う。

いまは、見えている。

私は、欠乏からではなく、余裕から書いている。「書かなきゃ」が回しているのではなく、「書きたい」が回している。

足りないものを埋めるための発信は、急ぐ。数字が出ない日が続くと、苦しくなる。でも、すでに満ちているところから書く発信は、急がない。誰かに届いた日も、届かなかった日も、書いたぶんだけ自分の整理は進んでいて、それで足りているからだ。

ただ、ここにいて、考えたことを置いていく。それが、どこかの誰かの夜を少しだけ軽くすることがある。その循環の中に、ずっといたい。

それが、いまの「なぜ書くのか」だ。

また、書き直しに来る

この答えも、いつか変わるだろう。何十本か先の私が、この記事を読み返して、また返信を書きに来ると思う。

「なぜ書くのか」は、一度答えたら終わる問いではなくて、書き続けるかぎり、何度でも書き直される問いなのだと思う。答えが変わることは、ぶれることではない。進んだ場所から、同じ問いが、ちがう景色で見えるだけだ。

過去の自分から未来の自分への手紙——最初の記事は、そう言っていた。ここまで来て、あれが本当だったと分かった。この記事も、いつかの私への手紙になる。

多くの人が、自分の「なぜ」をときどき書き直しながら、自分の続きを書いていけるよう祈ります。

七色のもふもふ、にゃないろより。

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